戦国時代に生まれ、天下統一という野望を持った男たちに翻弄されながらも健気にも逞しく生き抜いた多くの女たち。その中でも、その類まれなる美しさと、二度もの落城という悲運の生涯を送ったとされるお市の方。柴田勝家とともに、越前北の庄城で自害して果てたとされるお市の方が、実は、ある野望を持って生き延びていたとしたら・・・
女とは政略の道具であるとみなされていた戦国時代、織田信長の妹として大切に育てられたお市も、やがて美濃攻略を有利に運ばんがための道具として、北近江小谷城の城主、浅井長政の元への輿入れが決まった。お家のためとはいえ、見知らぬ地の見知らぬ男の元への輿入れである、不安がないといえば嘘になる。しかし、誰からも恐れられ、冷血とまで囁かれる信長ではあったが、お市には優しく慈愛に溢れ、兄というよりも父親以上の愛で包み込み育ててくれた信長の、天下統一という大きな目標の役に立てるという思いは大きく、晴れ晴れと尾張の城を旅立ったのは、永禄7年(1564)満開の桜が春風にそよぎ、ひらひらと薄桃色の花びらを散らす、春うららかな日のことであった。一方、小谷城では朝早くから、上を下への大騒ぎで「当代一の美女」と評判の姫の到着を今や遅しと待ちかねていた。程なくして、家臣の一人が彼方に輿入れの行列を見つけ長政の元へ走る。かねてより、この婚儀に難色を示していた長政の父久政も、お市が今をときめく信長の妹ということでは知らん顔も出来ず、しぶしぶ出迎えに城門まで出向いた。やがて城内に入った輿の御簾が上げられ、中から降り立ったお市の、その噂に違わぬ美しい姿に、小谷城の面々から大きな吐息が溢れた。仏頂面であった久政でさえ「ほおー」と相好を崩しお市の姿に見入っている。「この姫が今日から儂の妻となるのか」長政は己が背に電流が走り胸がときめくのを押さえられずにその場に立ち竦んだ。つまり、一目惚れである。お市も安堵の胸を撫で下ろす、噂では兄信長に匹敵する美男子であるとは聞いていたが、その実、毛むくじゃらではないか、鬼のように恐ろしい男ではないのかと戦々恐々として輿入れしたのである。今、目の前に立ち、照れ笑いながら暖かなまなざしで自分を迎えているこの眉目秀麗な男が長政だと確信した時点で不安は消し飛び、安堵の思いが身体中を走った。この人となら夫婦としてやっていける心底そう思った、お市もまた、長政に一目惚れをしたのである。婚姻関係を結んだ織田家と浅井家は同盟を結び、信長は美濃の国を略取し、足利義昭を将軍に復帰させるという名目のもと、京の都へと進軍を開始した。いよいよ、信長の天下統一への大きな野望が、現実のものとして眼前に開けられたのである。この婚姻が政略であったことなど微塵も感じさせることなく、二人の仲は睦まじく、小谷の城には、二男三女という子宝にも恵まれたお市の笑い声が溢れ、誰の目にも、長政、お市夫婦の幸せが永劫に続くかに思えた。しかし、時は戦国の世である、やがてお市の身の上に暗雲が立ち込め始める。お市が小谷の城に嫁して9年の歳月が流れた天正元年(1573)信長が長政との間で交わされていた誓約のひとつである朝倉家と敵対しないという条件を破り朝倉義景討伐の兵を送ったのである。寝耳に水の信長の裏切りに激怒した長政は朝倉方と謀り信長軍を挟み撃ちにせんと金ヶ崎に陣を張った。心を痛めたのはお市である、愛する夫長政を思う気持ちに嘘偽りはないがこのままでは兄の身が危うい、何とか知らせる方法はないものか、一計を案じたお市は袋に入れた小豆を陣中見舞いとして信長の陣に送った。「市からの陣中見舞いか・・・」袋の上下をしっかりと結び付けられた小豆を手にした信長の顔色が瞬時に変わった「袋のねずみ」すぐさま全軍に撤退命令を下した織田軍はお市の機転により無事窮地を脱したのであった。いったん城へ戻り策を弄した信長の勢いはすさまじく、朝倉義景はあっけなく討たれ、勢いに乗じた織田軍はそのまま小谷城へと兵を進めた。勝敗はすでに見えている、兄に攻め入られたお市の胸中はいかばかりであったろう。「裏切った長政は憎いがお市や子どもは速やかに城外に連れ出し救出せよ」信長の命を受けた藤吉郎は城中に駆け込んだ。お市の前にひざまずきその由伝える藤吉郎の姿をおぞましいものを見るように一瞥したお市は子らを抱きしめ長政の側を離れようとはしない「市、そなたは生きよ、いや生きてくれ、この長政のために」お市の前に回った長政はその細い肩を抱いた「嫌でございます、市はあなたと共に・・・」もはや城が炎に包まれるのは時間の問題である「ごめん」無情にもお市の腕を掴んだ藤吉郎は長政から引き剥がし抗うお市の身体を抱き上げた。必死で後ろを振り向いたお市の目に「無念じや・・・」屈辱に顔を歪め炎の中にくず折れていく長政の姿が見えた。抜け殻のように力なく、ただされるがままに身を委ねた女の身体のわずかなぬくもり「死なせてなるものか」お市は藤吉郎の初恋の人である。身分の違うお市をただ遠目に垣間見るだけの恋慕ではあったが藤吉郎の胸は高鳴り膝は震えた。お市さまと一度でいい言葉を交わしたい、そんな思いが藤吉郎の出世欲をかきたてたといっても過言ではないほどその思いは強かった。そのお方を救い出す任を命じられた藤吉郎は天にも昇る心地で城内に赴いたのである「むざむざ死なせてなるものか」今、まさに手の届かなかった高嶺の花、お市をじかに抱いている「もしや、いや、万にひとつ、信長さまの心ひとつでこのお市を自分のものにできるやも知れぬ」藤吉郎の胸にむらむらと沸き起こった邪心は、城を焼き尽くそうとする炎までも蹴散らし、城外へと通じる道を開けたのであった。
『女の戦国時代』 洪 秀英